朝ドラ「花子とアン」で主人公の妹に扮している黒木華という女優さんについて、岩下俊三さんはつぎのように評しておられます。
「その圧倒的な存在感、どこか昭和の雰囲気を漂わせ、とりわけ彼女が無意識に持っている「文学的香り」はある感覚の演出家たちにとって「たまらない」輝きを放っている。
多くの原石の中に彼女がいても、たとえそこが砂浜であってもこの一見地味な粒を見つけ出すだろう。」
わたしは、人がキレイだキレイだと言う人をキレイだと思うことがあまりありません。
人の美しさはその表情にあると思っているからです。
彼女の「たまらない」輝きもその表情から零れてくるものであることは言うまでもないでしょう。
輪郭の柔らかさ、唇の柔らかさ、眼差しの柔らかさを持つ彼女ですが、そういう柔らかさ持つ女性を見かけることがほとんどなくなりました。
反対に目を三角にしてイライラしている女性が多くなりました。
強いストレスを浴びているのだろうと同情しますが、総理が進める女性の活用によって「輝き」どころか目を三角にした女性を増やすことになるとしたら嫌だなと思います。
わたしは、生物としての美しさは10代の早い時期で終わるような気がします。
20代になると半減以下になりますが、その代り、人間としての顔になっていかなければならないのだと思います。
しかし、世間には人間になり損ねたような顔が多いです。
「もの」としての顔ばかりが目に付きます。
タモリさんが年をとった女性の美しさを言われるのは、そういう女性が「人間の顔」になるような生き方をしてきたということだろうと思います。
そういう女性は外面も内面も姿勢がよくて「凛」としています。
それにしても、女性はなぜ目が大きいのを良しとするのでしょうか。
竹久夢二あたりからの影響でしょうか。
目の美しさはかたちではありません。
眼差しだと思います。
いくら美人でも尖がった眼差しをしては台無しというか、そういうのは美人とは言わないのです。
わたしは、半年間かやく御飯を食べていたのですが、よく飽きないものだと思われるでしょうが、飽きません。
だって、戦前はほぼ毎日同じようなものを食べていたのですから。
いつかも書きましたが、大阪の商家のあるじが、年初にあたり、日めくりに一年間の献立を書き込んだということですが、それが可能だったのは、つまり同じものを食べていたからです。
祝日や節気には特別なものがでたそうですが、それだって毎年決まっているのですから、なにも献立に煩わされることはないのです。
主婦が悩むのが毎日の献立ですから、わたしなどはむかしは良かったなと思うわけです。
以前「隣の晩ごはん」という番組をたまに目にしたのですが、どの家もたいてい食卓いっぱいに料理が並んでいたことに驚いたことがあります。
そして、それらの大量の料理が胃に入っていくことを想像してわたしは「汚い」という印象を持ったのです。
永平寺の修行僧は肉も魚もない質素な食事ですが、みんなイイ身体をしているのが不思議でしたが、小食で質素な食事が頑健な身体をつくるのでしょうか。
いつ日本に飢えが襲ってくるか分かりません。
そういうのは突然くるのでしょうね。
美食、飽食の人には辛い時代がくるかもしれません。
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