もうお目にかかれないと思っていた「ポスト米英時代」さまの記事が復活して慶賀に堪えません。
と言って真剣に読んでいるわけではなく毎度読み飛ばしている感じです。
しかし、自慢ではありませんが、わたしには瞬時にしてサワリやエッセンスを感受する能力がありますのでwそれでいいのですw
なにより気分が明るくなるのがいい。
人生捨てたもんでもないと思わせてくれるのがいい。
わたしはふざけた文体が嫌いというよりすぐ飽きてしまうので、これまでに自然消滅していったブログもけっこうあるのですが、
しかし、一見ふざけているようなポストさんの文体ですが、なぜか飽きることがありません。
なにがいいと言って、どんな思想や主義にもとらわれていないのがいい。
それ以上に偏見がないのがスバラシイ。
(バカをバカ、悪(わる)を悪と言うのは偏見ではありません。)
主義や偏見などというケチクサイ尺度で世の中を見ていないのがいいのです。
だから(ホラだと思いますがw)どうぞ、せっせと風俗なりキャバクラなりに通って英気を養ってください。
きのうの「バカ国民帝国日本の滅亡」に、わたしが最近考えている「信じるとは?」のヒントになることが書かれていました。
スターやタレントに憧れる心理について
「妙な神様を拝んで有頂天になっているようにしか見えまへんで~
仏教で『偶像崇拝禁止』ってあるんだが、まあ 『ファン』ってのが一種のカルトでさ、、、
そのタレントを批判すると異教徒を攻撃するごときに怒るでしょ?あいつら、、、
『キチガイ』って、昔から言うんだよ、そういう連中を、、」
「そうした自分たちの『偶像』を担いで、別の『偶像』担いでいる連中と、覇を競い始める修羅の道、、」
わたしがそれまでに考えていたのは、「信じる」ということは良くないのではないかということでした。
「信じる」ということは、それ以外を「信じない」ということであって、どこまでいっても相対の世界です。
自分の信じる「偶像(価値観)」以外を排斥することから争いが生じるのですから、結局、なにも信じないのが平和だということです。
わたしがひとつ信じることができるのは、この世に無常でないものはないということです。
たとえば、人間関係において、わたしは相手と気持ちのいい楽しいひとときを持てることが最高の幸せだと思うのですが、なぜかそこにいつの間にか「信じる」とか「信じられない」という余分な感情が忍びこんできて関係が悪化したり断絶することになることがよくあるようです。
なぜ、信じる必要があるのでしょう。
信じるということは、相手にも自分にも負担がかかることです。
お互いを縛ることです。
わたしはなによりも自由でいたいから、こころに負荷がかかることは徹底的に嫌なのです。
自分のこころもままならないのに(無常だから)どうして人を信じるのですか。信じられますか。
まして、男性などw
まして、夫などww
わたしは自由でいたいから夫を信じません。
だから気楽でいられます。
(ところが、最近このブログのことがバレてしまい、「つまらんことを書くな」とか「アンタの考えは気にいらん」とか言うので、わたしの自由が存亡の危機に瀕したのですが、その後「読むな!」「読まない!」ということで決着してなんとか危機を脱することができましたw)
信じていると裏切られたときに辛くなりますから、はじめから信じないことです。
信じると言って、お互いを縛っているのですから、、、
もうそんなミミッチイことは止めましょう。
カッコよく結論を言わせていただくと
「愛はその(信じる、信じないの)上にあるものです。」
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