飯山一郎さんの狂気の罵詈讒謗はもう収まったのでしょうか。
わたしは一連の飯山さんのやり方を見ていて、かって体験した在日との攻防wを思い出していました。
もっとも飯山さんが在日かどうかは分かりませんが、少なくとも、こんな日本人はいないだろうとの感触はますます強固なものになっています。
わたしが早くから石原慎太郎を日本人ではないと思っていたのは、日本人ならぜったいそういうことは言わないだろうという言動が余りにも多かったからです。
こないだも、選挙演説に集まった聴衆に、横田めぐみさんは金正日の「めかけ」だったと言ったそうですが、これなどは日本人ならぜったい言わないことでしょう。
かれらは非常に頭脳が優秀で、その優秀さのほとんどを人心掌握に費やしているといっても過言ではありません。
飯山さんも人心掌握術に長けています。
たとえば、これはと目をつけたブログを持ち上げ、褒めちぎる、もちろん、飯山さんの見る目は確かなのですが、それらのブログは飯山さんに言われなくても優れていることは衆目の認めるところなのです。
それでも褒めちぎるのが人心掌握術なのです。
それによって自分の権威を高めると同時に勢力拡大?につながるからです。
相手を立てているようで、自分のためなのです。
わたしはいや~な感じで見ていましたが、ほとんどの人は、なんとフトコロの深い公平な目を持った人かと思っていたのではないでしょうか。
かれらの頭の良さに日本人は歯が立ちません。
なぜなら、その頭の良さは日本人には必要なかったからです。
日本人は人心掌握術を学ばなくても、なんとかかんとか「和」を保って生きてきたからです。
島田紳介なんかは典型なのですが、人はかれを恐れながらもその魔力のようなものに吸い寄せられていきました。
かれの持って生まれた暴力性を真の男の強さだと勘違いしたのです。
もし、日本人が、それが陽に当たれば溶けてしまうようなこけおどしの「強さ」だと気がついていれば、今のようにかれらに浸食されることもなかったのです。
かれらがいかに人心掌握術に長けているかは、何百万という信者を擁するかれらの宗教をみれば分かるではありませんか。
愚かなお人好しの日本人がホイホイと自らいけにえになっていきました。
男の下半身と人格は別だと言われます。
その伝で、はたして人間性と思想は別だということがいえるでしょうか。
飯山さんは皇室を敬っているということです。
戦前は国民は天皇の赤子といわれ、赤きこころ(赤心)を皇室に捧げるものだとされてきました。
しかし、わたしは少し違うように思います。
赤心とは、邪心のない清らかなこころを意味し、それを大御心と言って皇室が自らそれを体現し、わたしたち国民の手本になっておられるということだと思います。
匿名でだれともつながらずに書けるということにブログの存在価値があるのだと思います。
わたしはその特権を大切にして、書きたいことを自由に書きたい。
匿名だから書けるのだという批判がありますが、それよりも問題なのは、匿名でさえ書けない、書かないということです。
人々が現実社会でいかに口を閉ざして生きているかがこれからも窺えます。
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