きのう、NHK「歌謡コンサート」で、島津亜矢さんの「帰らんちゃよか」を聴いたあと、ユーチューブでばってん荒川さんが歌うのを聴きました。
繰り返し、繰り返し聞いてはそのつど泣いていました。
わたしはこういう人間、こういう親になりたいと願ってきたのでした。
いま、長い年月をかけて、自我や感情を馴致してきて、ほんの少しそういう人間に近づけたかなとは思っていますが
自分を空しくして、相手の幸福を願うのがほんとうの愛だと分かっていても、ときとして前面に出てくる自我や荒れ狂う感情を制御するのは至難のことです。
吉野の歌人、前登志夫さんが、あるとき、三十人くらいの人を前にして「もう娘には憎しみしかありません」と言われたことがありました。
なんでも、愛娘が都会(東京?)に出て行ったことが許せなかったようでした。
つまり、親は自分の意に逆らう子どもを憎むということです。
そのときは、その出来事の直後で、奔騰する感情を制御できないままに口をついて出てしまったのでしょうが、時が経てば、出て行った娘をいつのまにか受け入れている自分に気がつかれたはずです。
また、あるとき、教育に携わる人が「家族」について講演され、夫婦、親子関係ともに円満で順調だと胸を張って言われたのですが、実際は、問題の多い家族だということをわたしは知っていました。
みんなこうして嘘ばっかり言っているのだと思いました。
いまも、大なり小なりほとんどがそうだと思っています。
愛を説く人が、自我を晒したり、逆上したりする場面は枚挙にいとまないくらい見てきました。
神ならぬ人間だから当然なのです。
だれだって、初めからなんでもできるわけはないのです。
だからこそ「だんだんきれいになる」という意思と意識が大事なのではないのでしょうか。
この歌の親子にしても、小さい時からのコミュニケーションあればこそです。(言葉だけをさすものではありません)
ばってん荒川さんのうたを聴いて泣くのは、歌の良さ以上に、荒川さんの「芸」の力に圧倒されるからです。
こういう人をほんとうの芸人というのでしょう。
いまの芸人はふざけることが芸とでも思っているのでしょうか。
それはブログでも言えることで、わたしはおちゃらけの文章を見ると、なぜか「狡さ」を感じてしまいます。
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