きょうも「酔生夢人のブログ」から。
元ネタは井口和基さんのブログからのもので
「論理的言語(民族)と情緒的言語(民族)」ということで、岡潔の宇宙の本質は情緒であるというところから民族性の違いを検証しているものです。
わたしは岡潔の本ばかり読んでいた時期があり、その要旨というかエッセンスは自身の血肉になっていると思っています。
以前にも書いたことですが、岡潔が生まれた町でわたしは育っています。
その町はとても狭いエリアで、もしかしたら、わが家は岡潔が生まれた場所の上に建っていたのではないかと思うくらいです。
また、小説の読めないわたしが唯一読んだのが稲垣足穂ですが、足穂もわたしの生まれたところからごくごく近いところで生まれています。
それ以外には、「雪国」だけ読んだ川端康成の出生地も一丁と離れていません。。
わたしはホロスコープで見てもらったことがあるのですが、ホロスコープは生まれた場所と時間で観ます。
生まれた場所と時間が重要な意味を持っているということです。
わたしが岡潔を読んだのも、小説が読めないのに足穂に夢中になったのもそういうところから謎が解けそうに思ったりします。
(岡潔の出生地を知ったのは最近のことです)
外国人に日本人の情緒はなかなか理解できないということですが、
善悪の問題ではなく、日本人ならそういうことはしないだろう、ゼッタイできないだろうということは厳然としてあります。
それだけ日本人が特殊だということでもありますが、だから、日本人でない人の言動は一目瞭然なのです。
また、日本人の美意識は、たとえば満開のさくらよりもつぼみや散ったあとの状態にこころを惹かれるということのようですが、
それはあくまで日本文化の神髄を言ったもので、実際はそうでもないことが多く目につきます。
下の写真は自分でもよく分からないのですが、なんか気になって撮りました。
まさに、柿の葉はあらかた散って、実が五個ほど枝に残っているだけです。
わたし的には前景の倉庫もなくてはならないものですが、なぜなのかは分かりません。
(ちょっとUPをためらった写真ですが自分では気に入っています)
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