変化、転換のときがきたようです。
もしかしたら、わたしたちは、歴史の桎梏からの解放に立ち会えるのかもしれません。というよりすでに目の前で始まっているのかもしれません。
漸く、機が熟してきたということしょうか。
それなのに、ひとり日本だけがその流れに背を向け、逆方向に行こうとしています。
安倍総理は理念も信念も自信もないので、規制や弾圧に向かわざるを得ません。
あの、CMやポスターの顔はなんなのでしょう。
いままで、なにを思って生きてきたのかと疑うような顔です。
もっと、深い思いが刻まれた顔をしている小学生だっているというのに。
もう、アメリカは日本を相手にしていません。
官僚は本気でTPPは安全保障だと思っているようです。
かれらの頭にはアメリカしかないのです。
どうか、見捨てないでください。
TPPだって、集団的自衛権の行使だってやりますからと、アメリカの袖に縋って哀願しているのです。
日本はここまで落ちぶれました。
もう、これ以上は落ちちられないところまで堕ちました。
天皇陛下がおいたわしい。
きのう、クリシュナルティという人の言葉を読みました。
その前に、「つむじ風」ブログより。
『 身を捨てて、浮かぶ瀬もありとの言葉通り、リラックスして身体を預ければ、人間の身体は必ず水に浮かぶようになっている。同じく、心も同様だ。執着を出来るだけ捨てて、自然に任せれば、放って置いても心は軽くなるものであるから、本来の愛のエネルギーに満たされるというものだ。』
『「孤独」とは、文字通り、何ものにも染まらず、天真爛漫で自由であり、そうして、バラバラではなく一個の全体として凛としてそこに在ることである。』
『自分を他とものや他の人間と比較したり、昨日の自分と今日の自分を比較するとき
そこに生じるのは矛盾だけである。
そうした比較をすべて無視した場合のみあるがままの自分が存在するのである。』
車で夜道を走っていたとき、わたしは助手席に座っていたのですが、すぐ前方に自分がいるのを見たと以前書いたことがあります。
そのとき、思わず、カワイイ!とこころのなかで叫んだのですが、カワイイとは、愛しい、いじらしいという意味だったのですが、イチバン感じたのは、「天真爛漫さ」でした。
後になって、人間の本質はこんなに「天真爛漫」なのだということを、わたしの分身を通じてだれかが教えてくれたのではないかと思いました。
それにしても、いままで、孤独というものをこのようにポジティブに語ってくれた人はいませんでした。(わたしが知らないだけかもしれません)
努力というものをしたことがなく、勉強は大嫌い、本を読んだり、音楽を聴くのも苦手なわたしにとっては、有難くも都合のいい言葉なのですが。。。
そんなわけありませんよね。
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