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谷間の百合

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十月三日 その一 「いのちの音」

マドモアゼル愛様の記事を転載。

「何が幻想で、何が現実であるのか、今の内にそれを問い直すことが求められている。」
ということで、最後の二行にその指針が提示されています。
先ず、「命の音」を聞くこと。

ニワトリを飼っていたころ、わたしはかれらが嫌がるのを捕まえては抱っこしていたのですが、そのときのからだの温もりが今も手に残っています。
いつか、斉藤史さんの歌集の巻頭口絵の写真で、史さんがニワトリを抱いておられるのを見て、思わず頬が弛みましたが、史さんも、わたしと同じような気持ちで抱いておられたのだろうなと想像して感激したものでした。

生きものの体温に触れ、命の音(心臓の鼓動)を聞いて、なおそれを殺して食べようという気持ちになるでしょうか。
わたしは、動物たちが、人間と同じように、あるいはそれ以上に、死というものを認識していることに確信を持っています。
苦しみや悲しみに対する感受性は、もしかしたら人間以上かもしれないと思っています。

最近の若いひとは、なかなか異性に触れる機会がないかもしれませんが、それでも幻想の世界に閉じこもるのではなく、小動物や小鳥に触ることくらいはしてほしいと思います。そして「いのちの音」を聞いてほしいと思います。


幻想レストラン
テーマ:ブログ
先日、新宿のビルの上にある人気料理屋へ連れて行かれた。なぜ人気かというと、よくその店の前に行列ができていたのを知っていたからだ。

一度のぞいてみよう、、、と思っていたが、たまたま行く機会を得た。

店内は明るく外からの光がよく入る、まるで温室のような雰囲気。人気店らしく確かに混んでいた。

注文を済ませ、待つこと数十分。昼のサービスタイムにしてはけっこう時間がかかるので、さすが、本格的なのかしら、、、と思って、やってきた料理を口に運んだ。

味がよくわからない、、、おいしいのか、まずいのかが、なんとなくわかりにくい。最初は本物はこんなもんなのかな、、、とも思ったが、何口食べても何がおいしいのか、どこがまずいのかもわからない。

そして段々とわかってきたのは、どの料理にも共通する無機質さだったが、これはレンシレンジ特有の味だと気がついた。

味に命がない。まずいならまずいと、おいしいならおいしいと、はっきりしてくれればいいのに、すべてがあいまい。

そして思ったのは、そうか、あいまいだから批判されることもなく、周辺のイメージで全体をよく感じさせているのだな、、、ということ。そして大勢の人はそれがいいと思っているという現実。

レストラン内部の一応の豪華さ。ウエイトレスのにわかに学んだように見受けられる一流的な応対。なのに疲れが目立つ感じ。大きめの器で料理がさも非日常のように見せる工夫。

料理のメニュー数も多いが、わずか数種類食べただけだが、何をたべてもきっと同じテイストなんだろう、、、とわかってしまう。

要するにどこにも本物はないのに、どれもさも一流のように見せるためだけの工夫のオンパレード。まさにここは幻想レストランであると思った。

最近、この手の「幻想レストラン」がとても多い。しかもそれなりの人気を集めている。本当の味よりも、それらしさ、、、みせかけ、、、が一流に見えることが大事になってしまった時代。

中身がなく、体裁のみの、電子レンジ味を食べさせられることに、他の多くのお客は何も感じていないのを見て、私は再び驚いたのだが、時代はそこまで変化したのだと一種のあきらめの境地に。

大きな窓の外は、屋上になっていて、しゃれたベンチでパンや牛丼に食らいつくサラリーマンの姿があり、時々目が合う。

向こうは向こうで、お前ら、うまいもの食っていて、、、というどこかしら反感を感じる視線を受けるが、間違いなく、あなたの食べてるもののほうがおいしいですよ、とは、最後まで気づかないことであろう。

今はやりの店の多くはおそらく幻想レストランであろう。しかしそれはそれで仕方ない。それなりの良い雰囲気で、それなりに見てくれもよくして、、、それをそんなには高くないお金で味わわせてくれるのだから、確かにはやるのは当然かもしれない。

こうした中で私たちはいつしか、幻想学校へ行き、幻想企業に勤め、幻想結婚をし、幻想人生を送っていくのだろうか。

幻想は現実に弱い。現実を幻想に置き換えて置けるうちはそれでもいいが、一度、重たい現実が訪れたとき、私たちは幻想人生を、果たして持ちこたえることができるのだろうか。

幻想レストランんからの帰り道、東京の広尾を車は通過していく。信号待ちの横道からは、ベンツ、BMW,ベンツ、トヨタの最高級車と、次々出てくる。

その中の数台は慶応の小学校の前で停まった。送り迎えなのだろう。あどけない顔の小学生が迎えに来た車に乗り込む。

私は心の中でつぶやいた。「だめだよ、、、そんなことが大事なんじゃないんだよ。こんなことで自分を他の人と違うと思っちゃダメだよ、、、」

私の声が小学生にもちろん届くわけはない。車は挨拶もせずに私の車の前に割り込み、アクセルを吹かして去っていった。

なぜかくすんで見えた広尾界隈の空気は、そこが幻想都市であることを教えてくれたかのようだった。しかし幻想都市の命はいま、息も絶え絶えではなかろうか。

私たちは今生きているその場で、生活を立て直さなくてはならなくなるだろう。流通システムに頼らない生活の方法をつくる必要がきっと出てくる。

幻想都市はいずれ壊れると思う。幻想生活もやがて消えていく。福島の現実を見ればそのことがわかる。何が幻想で何が現実であるのか、今のうちに、それを問い直すことが求められている。



命の音 自己嫌悪からの脱出 深い瞑想への案内 ヨガセッションへの集中 ペットの安寧 乳児の安寧 トーニングによるリアリティ体験










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by michi-no-yuri | 2012-10-03 10:57 | Comments(0)
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