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谷間の百合

taninoyuri.exblog.jp

「先へ進む」ということ。

きょうは、愛様の記事について書こうと思っていたところ、サンケイに載った佐伯啓思さんの連載コラムを読んで、こちらを優先させることにしました。

今回、佐伯さんは、東北の被災地を訪れたときに、友人が洩らした「とまどい」について書いておられます。それは、次のような「とまどい」だったということです。

「あれだけの巨大災害なのだ。簡単に復興などできるわけがない。自分たちはもっと時間がかかると思っているし、その覚悟でいる。それを、ただポンポンと住宅が建てられ、生活物資が空から降るように提供され、いかにも簡便にモノを配給されてそれで復興などというのは何か違う気がする。」

佐伯さんは、このやり方はいってみれば戦後日本の復興と同じではないかと言っておられます。物質的な豊かさと利便性だけを追求して今日に至っているわけですが、そういうプロセスのなかで、
「精神的な何かを生活から追い出し、人の手の届かないものへの畏敬や死者や先人への思い」は置き去りにされてきたと。
今、また、死者は置き去りにされ、促成的な形だけの復興が推し進められていることへの疑問、あるいは怒りが被災者のこころの奥で燻り続けているのではないでしょうか。

愛する家族を失った人たちは、死者の魂と、残されたものの悲しみが、ゆっくりと浄化されていく時間のなかで、再生の糸口を紡ぎだしたいと思っておられるのではないでしょうか。

「東北の復興はたとえいくら時間がかかっても、自分たちの手で、こうした戦後日本が失ったものを取り返すようなものでなければならないのではないか」と、その友人は言っています。

わたしは、佐伯さんが、死者については沈黙しなければ「先に進めない」のだ。しかし、本当に「先に進む」ことがよいのだろうかという疑問を投げかけておられるくだりを読んで、思い出したことがあります。

昔のことですが、子どもの友だちが海で水死するという事故があり、わたしは、その子をよく知っていたものですから、いてもたってもいられないような、何かをせずにいられないような悲しみにおそわれました。そして、短い哀悼の文を書いて、PTAの会報にでも載せてもらおうと思ったのですが、そのとき、「悲しいことは早く忘れて、先へ進まなければ」と言われたのです。それも、そうでないと他の子どもに悪影響が及ぶからというニュアンスで言われました。
このとき、わたしは、世間の酷薄さというものを嫌というほど知ったのです。

「戦後日本は復興から成長へと続く流れのなかで、何か大事なものを失ってしまった。それは、本当の意味での死者への鎮魂である。あの戦争における300万人余といわれる死者たちへの鎮魂である。」

「復興とは難事業である。物質的な復興は可能であろう。しかし、死者の魂を置き去りにした復興など本当はあり得ない。死者と向き合い、死者の思いを救い出すところからしか本当の復興は始まらないのであろう。









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by michi-no-yuri | 2012-08-20 11:37 | Comments(0)
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