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谷間の百合

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失われた聖なる世界への回帰のための反芻行為。(つむじ風ブログより)

フクイチで陣頭指揮に当たり、いまは食道癌治療で入院中の吉田元所長が、あるシンポジューム宛てのビデオレターのなかで
「原子炉の冷却作業をする人間は、撤退すべきではないと死を覚悟していた。部下は
『地獄の中の菩薩』」と言っておられます。

かれら作業員は、国民に知られないままに、このまま癌に蝕まれて朽ちていくのでしょうか。そういう人たちの犠牲の上に、国民は辛うじて生活が営めているというのに、
一方では、オリンピックが始まり、みなが熱狂する姿がこれから繰り広げられるのかと思うと、居心地の悪さを通り越して苦痛さえ感じます。

政府や東電は、かれらのことを、国民に知らせなければなりません。かれらの自己犠牲の精神を讃え、感謝しなければならないのです。
学校でも、かれらのことが感動と感謝をもって語られなければならないのです。


むかし、司法試験を受けるために、新聞配達をしていた青年と、玄関先でよく立ち話をしたことがあります。その青年があるときこう言ったのです。「そんな考えは、世間では気狂い扱いされる」と。
わたしは何も奇嬌なことを言った覚えはありません。ただ、世間の人が偉いと言う人をわたしはエライと思えなかっただけなのです。それを、かれは反社会性だと感じたのかもしれません。
分かり易く言うと、死を覚悟して作業している人と、沢山の肩書を持ち、かの副島隆彦さんが人格者だとして信頼する山下俊一さんとどちらが偉いかということです。
こんな簡単なことを言っただけなのに、なぜ、わたしは気狂い扱いを受けなければならないのでしょうか。

その青年は検事志望でしたから、今頃は悪の組織の歯車となって、わたしのような真っ当な人間wを気狂い扱いして冤罪をつくっているのかもしれません。

ほんとうに、こういう人たちが顕彰されないような国は悪い国です。
悪い人間が幅を利かせ、いい人が社会の片隅に追いやられて息絶えようとしているような国がいい国であろうはずがありません。こんなことがいつまでも許されていいはずがありません。


きょうの「つむじ風」ブログの記事です。

この連載は、伊達や酔狂で連載しているのではない。心の対話であり、失われた聖なる世界への回帰のための反芻行動だ。
分かる人は読んでほしいし、つまらない話と言うことならば、スルーしてほしい。
 聖書を読み、親しんできたひとりではあるが、今ひとつ、解せないところが多かった。そして、その解説を求めることも好きではなかった。解説はその人の解釈だし、得てして、教団宗派の解釈となるからだ。
 得心が大事である。納得する、それがなければ、うち捨てる他はない。それが探求というものである。そう言う意味から、そこに向かって、ひたすら、孤独に歩む他はない。人には頼れない性分であるし、そこを頼っては、ひとつの妥協にしか過ぎない。
 その中にあって、偶然見つけた一冊の書籍が、『The Aquarian Gospel of Jesus』であった。今は絶版だ。その翻訳本が『宝瓶宮福音書:栗原 基訳』である。
それは、解せなかった聖書の隙間を聖水の様に埋め合わせてくれた。これは本物だ! そう叫んだものであった。しかし、人は人である。どう判断するかは、その人の自由である。何度も読んだ。ほとんどすり切れている。
 連載に至った、単純な動機がそこにある。



わたしは、家が特定の宗教でなくて幸せだったと思います。もしそうなら、早くからその宗教の色に染まっているか、あるいは宗教そのものに反発していたでしょうし、どちらにしろ、純粋に感じ、考え、判断することができなかったのではないかと思うからです。他人の判断に自分を委ねることをせずに済んだ家庭環境に感謝です。










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by michi-no-yuri | 2012-07-26 11:19 | Comments(0)
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