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谷間の百合

taninoyuri.exblog.jp

この世が悪の世である責任は、あなたがその独自性を出さないことにある。

NHK、日曜討論で、小沢さんが橋下市長との連携について「どなたであれ、考え方がいっしょの人とは力を合わせてやってきたい」と言われたことを
「小沢一郎は橋下市長との連携を明言した」と解釈している人がいることに、わたしは日本人の常識や読解力はここまで低下したのかと驚きます。
もはや、日本人の言葉の理解は、石原都知事のように「死んでもいや」というところまで言わないと分からないほど劣化したのかと。

橋下市長は、小沢さんへの刺客としてアメリカが用意した人間であることが明白なのに、なぜ、メディアは執拗に連携の話を蒸し返すのかと思っていたとき、もしかしたら、メディアは「かれら」にミスリードされているのではないかと思いました。
小沢さんとの連携話を引きずって、最後の最後でどんでん返しを食らわそうという計算かもしれないと。
つまり、小沢さんと橋下市長は同じ方向なのだという印象操作をして、小沢新党に流れる票をくい止めようということではないかと思いました。

小沢さんは、橋下市長に関心を示されたこともなく、ましてや、接触された事実もないのです。メディアはそれが気に入らなくて躍起になって煽っているのでしょう。


きょうのサンケイに、「The リーダー」という特別記事が掲載されています。
その中に、日本人のジョブス礼賛のウラに潜む日本人の心情を推察するとして、次のような記述があります。

「日本が閉塞感に覆われるなか、日本人は空気を読んで話すようになり、他人と違う言葉を発することができなくなった。そこに、「言葉の力」への渇望が広がっている。」

空気を読むことの本来の意味は、マナーとしての思いやりのことなのに、それがだんだんと、他人と違う言葉を発することを怖れる方向に突き進み、いまや、前述したような
常識としての言葉さえ理解できないところまできてしまいました。

しかし、「言葉の力」を言う前に、わたしは、愛様がよく言われる「声」が問題なのだと思っています。
過日、書いたことですが、核不拡散条約を巡る関係者の喧々諤々を、わたしは、音声だけで聞いていて、何と懐かしい声かと感動さえおぼえたのですが、もう、日本人の声が今と当時とではまったく違うのです。モチロン、顔も違っています。
あの、明らかな、屈託のない、くぐもりのない晴朗な声を、わたしは、いつか再び聞くことがあるのでしょうか。

今回の愛様の記事はイヤになるくらい長くて、日ごろ、わたしが読める分量は原稿用紙にして2枚か、多くても3枚までなのですが、愛様だけは例外ですw
みなさんも、ぜひこの記事を熟読してください。
そして、最後に書かれている

「この世が悪の世である責任は、あなたがその独自性をださないことにある」


という言葉を噛みしめてください。

独自性かどうかは分かりませんが、わたしは、我がまま気ままに過ごしてきて、世間には受け入れられませんが、愛様がいわれるように、この上なく「幸せ」です。
家族からも、「頑固」であるより「我がまま」なほうがなんぼうかいいと認められているのです。










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by michi-no-yuri | 2012-07-13 11:01 | Comments(0)
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